『鍼道秘訣集』 1685年 鍼道秘訣集 上 ■鍼道秘訣集序 無分 亦は無@  夢分流 当流、撃鍼(うちはり)の元(はじめ)は、夢分翁、初(はじめ)禅僧たりし時、悲(ひ)母極(きわめ)て病者(びょうしゃ)なりしかば、夢分之を歎(なげき)、母孝行の為(ため)、時の名人たりし医師(くすし)に逢(あい)て捻鍼(ひねりはり)を習(ならい)得(え)て、朝夕母を療治(りょうち)し、病を痊(いやさん)とすれども、重病にや験(しるし)も無(なし)。 茲(ここに)於て夢分翁、工夫(くふう)を費(ついや)し、案(あん)を廻(めぐら)して、此の撃針(うちはり)を以て立るに、手に応(おう)じて験を取のみかば、他人の病を痊(いやす)事十に九を全(まっとう)す。 之に因(よって)、人の病苦(びょうく)を救(すくう)は薬師如来の慈悲(じひ)の道理と念(おもい)に、遠近(えんきん)、貴賎(きせん)、貧福(ひんぷ)を撰(えらば)ず、救(すくう)を以て専(もっぱら)としたまう。 故に其の名程無(ほどなく)四方に秀(ひいづ)。 是を意斎法橋(いさいほっきょう)聞伝(ききつたえ)、奇異(きい)の念(おもい)をなし、千里(り)の道を遠(とおし)とせずして、夢分の宅(いえ)に尋(たづね)行(ゆき)、師弟(してい)の約(やく)を堅(かとう)し、歳(とし)を積(つみ)、月を重(かさね)て奥義(おうぎ)を授(さずか)り、終(つい)に其の名を高(たこう)す。 之に依(よって)弟子数多(あまた)有といえども、奥田意伯其の伝を得、洛陽に住して名を都鄙(とひ)に広(ひろむ)。 相継(あいつき)て、宗子九郎左衛門の尉尊直(たかなお)、父に越(こえ)て針術(しんじゅつ)に妙を現(あらわ)す事勝(あけて)計(かぞえ)難(かたし)。 其の嫡(ちゃく)意伯同く相継、洛陽にして億万人の病を救(すくう)。 是(これ)即ち夢分翁より伝へ来る処の鍼法(しんぽう)此(かくの)如(ごとし)。 然るに、当流は十二経(けい)、十五絡脈(らくみゃく)、任督(にんとく)両脈(りょうみゃく)を考(かんがえ)針せず、根本(こんぽん)の五臓(ぞう)六腑(ふ)に心眼(しんがん)を付枝葉(えだは)に構(かまわ)ず、針は心なりと和訓(わくん)して、心を以て心に伝(つたえ)、教外別伝(きょうげべつでん)、不立文字(ふりゅうもじ)と号(ごう)するが故に、他流の如(ごと)き遠理(えんり)の廻遠(まわりとお)なる療治(りょうじ)本(ほん)更に之無(なし)。 心裏(こころのうち)に奥義を納(おさ)め、唯一心の持様(もちよう)を大事とするなり。 此専(せん)一の処(ところ)を護(まもる)事成難きがゆえに、管針(くだはり)、指(さし)針など名を替(かえ)、品(しな)を変(かえ)て人の心を蕩(とらか)す。 譬(たとえ)ば、手書(かく)人尊円(そんえん)流の御家の筆法成難きゆえに、色色と書替(かきかえ)、紛(まぎら)かすが如し。 是(この)故に、多く過(あやまち)有て、十に九非業(ひごう)の死をする人数多(あまた)なり。 誠(まこと)に悲(かなしむ)可(べし)、憐(あわれむ)べしと念(おもう)心止難(やみがたき)に因(よっ)て、万人の死をも救(すくい)、千万の鍼医(しんい)の危(あやうき)事を成(なさ)ず。 上手(ふ)号(ごう)を取(とら)しめんが為(ため)、秘中(ひちゅう)の秘事を書(かき)あらわして、世宝(ほう)とするものなり。少も疑(うたがいを)生(しょうずること)勿(なかれ)。 ■鍼道秘訣集目録 一 当流他流之異(かわり) 二 当流臓腑之弁 并 図 三 心持之大事 四 三つ之清浄(すまし) 五 四つ之脈の大事 六 火拽(ひき)之針 七 勝纍(かちひき)之針 八 負曳(まけひき)之針 九 相引(あいひき)之針 十 止(とどむる)針 十一 胃快(いかい)之針 十二 散(さんずる)針 十三 針抜(ぬけ)ざるを抜(ぬく)大事 十四 針痛(いたみ) 十五 必死の病者を知る習(ならい) 十六 吐(はかする)針 十七 瀉(くだす)針 并 図 十八 車輪之法 下巻 十九 実之虚 并 図 二十 虚之実 廾一 実実 廾二 虚虚 廾三 寒気(さむけ)を知る事 廾四 腫気(しゅき)の来(きたる)を知る事 并 図 廾五 瘧(ぎゃく)の観分(みわけ) 并 図 廾六 膈(かく)之針 并 図 廾七 中風針之大事 廾八 亡心之針 廾九 丹毒之針 并 図 卅 驚風之針 并 図 卅一 疳之針 卅二 瘧母之針 卅三 一之針 卅四 胃(い)の気有無之大事 卅五 三焦の腑之大事 卅六 補瀉(ほしゃ)之大事 卅七 懐妊(かいにん)血塊(けっかい)観分(みわけ)之大事 卅八 胎前(たいせん)に針する大事 卅九 産後針之大事 四十 野狐の針之大事 鍼道秘訣集巻上  ■一 当流他流之異(かわり) 他流の針を誹謗(そしる)にはあらず。 我も元(もと)他針を習(ならう)事、九流なり。 他流にては病者に煩(わづら)いの様子を聞(きき)、療治をなせども、多くは病人に草臥(くたびれ)来(きたり)易(やすし)。 当流の宗とする処は、病人に病証(びょうしょう)を問(とう)迄(まで)も無(なく)、腹(はら)を観(み)、兎角(とかく)の病証(しょう)を此方(こなた)より委(くわし)く断(ことわ)るしかのみならず、百日針すれども、漸漸(ぜんぜん)に験(けん)はあれども、他流の如く草臥の来る事無(なし)。 是(これ)、当流の名誉(よ)なり。世俗(ぞく)の諺(ことわざ)に品玉(しなたま)も種(たね)無(なけ)れば成難(なりがた)しと云(いう)が如く、蔵府(ぞうふ)の居処に依て、病証変(かわる)。 厥(その)異(かわる)処を以て、病証をも知(しり)、還(また)、生死の善悪を明(あきらか)にす。 当流の一一妙を現(あらわ)す格(かく)を左に顕(わらわ)す。 心眼(しんがん)を付(つけ)、観(みる)べきこと専(もっぱら)なり。 ■二 当流臓腑(ぞうふ)の弁  鳩尾(きゅうび)、俗に水落(みづおち)と云う。是(これ)を心臓(しんのぞう)と号(ごう)す。 少陰、君火とて、毎年三、四月の温(あたたか)なる火、是(これ)なり。 此心に邪気(じゃき)ある時は眩暈(めまい)し、舌(した)の煩(わずらい)、頭痛(ずつう)し、夜寝(ねむる)事を得ず。 又は眠(ねむる)中に驚(おどろ)き、 又は心悸(むなさわぎ)し、 心痛み等の病を生ず。  鳩尾の両傍(かたわら)を脾(ひ)の募(ぼ)と号し、脾(ひ)の臓の病を知る。 是の処に邪気有る日(とき)は、手足、口唇(くちびる)の煩い、両の肩(かた)痛み等あり。  肺先(はいさき)は脾(ひ)の募(ぼ)の両傍(ぼう)なり。 茲(ここ)に邪気住(じゅう)するときは、息短(みじか)く、喘息(ぜんそく)、痰(たん)出(いで)、肩臂(かたひじ)の煩い出る。  肝の臓と号するは両章門(しょうもん)、並に章門の上下なり。 茲(ここ)に邪気出る日(とき)は必ず眼目(まなこ)の痛(いたみ)、疝気(せんき)、淋(りん)病、胸脇(むねわき)攣(ひきつり)痛み、息合(いきあい)短(みじか)く、究(きわめ)て短気にして酸(すき)物を好(この)む。 又は足の筋(すじ)攣(ひきつ)ること、扠(さて)は諸(もろもろ)の病に寒気(さむけ)を出すは、皆以て肝(かん)の業(しわざ)なり。 肝瘧(かんしゃく)など云も此処に邪気あり。 針して邪を退(しりぞけ)る時は痊(いゆ)る。 胃の腑は鳩尾の下と臍(へそ)の上との間(あいだ)に住する。 維(これ)、人間の大事とする処(ところ)、一身の目付処とす。 万物、土自(よ)り生じて還(また)終り土に入る。 他流には、胃の腑、虚(きょ)し易(やす)し、甘(あま)き味(あじわい)の物、脾胃(ひい)の薬とて甘(あまき)物を用い、補薬密丸等を用る事、心得(え)難(かた)し。 其(その)故(ゆえ)は、日夜朝暮食(くらう)処の物は、皆胃(い)中に入がゆえに餘の臓腑と違(ちが)い、実し易きに依(よ)り、還(かえっ)て邪気となるゆえに、食後に草臥(くたび)れ、眠(ねむ)りを生じ、扠(さて)は胃(い)火、熾(さかん)なるが故に食物を焼(やき)、胃乾(かわく)により、食を沢山に好み喰う。 その終りに手足へ腫(はれ)を出し、土、困(くるし)めば、腎水を乾(かわか)し、脾土へ吸取(すいとら)れぬるに依(よっ)て、腎の水も共に乾き、火となり、邪と変じて小便止(とど)まる。 加様の病い、元(もと)胃(い)の腑の実(じつ)し、邪となる事を弁(わきまえ)ず、腎虚(じんきょ)、脾(ひ)虚なれば、補薬等の甘味を用い宜(よろし)、など云て用る時は、忽(たちまち)心腹になづみ、返て重病となる。 是(これ)、唯(ただ)燃(もえる)火に薪(たきぎ)を添(そえる)が如し。 又、甘(あまき)物、腎水をも益(ます)など云う人有り。 維(これ)、以て謬(あやまり)なり。 甘(あまき)は脾土の味い、土剋水の理なるにより、腎水の為には大敵なり。 何ぞ薬と成べき。 加様の違いにて生(いく)べき病人も死に趣くを非業(ひごう)の死と号す。 当流の養生針などには、兼て脾胃、実(じっ)し易(やす)く、邪気と成やすく龍雷相火(りゅうらいしょうか)の肝、実し易(やすけ)れば、病と変ずる事を悟(さとり)て、肝胃の亢(たかぶら)ざる様にと針す。 夫針は金(かね)なり。金は水の母にて、金裏に水を含(ふく)み、陰中の陰なる金水を以て、邪熱(じゃねつ)を鎮(しづ)め退(しりぞ)く。 胃実(いじつ)は邪熱(じゃねつ)の根(もと)と云う。 脾胃の実火に甘(あまき)物を用れば、弥(いよいよ)以て、病重る事明(あきらか)なれば、補薬を用て験(しる)し無し。 胃火、熾(さかん)にして、煩う病人は必ず甘(あまき)味を好む。 是(これ)、其の病の好む処なれば、用て悪く用ずして吉、右は大法奥にて漸漸に断(ことわる)べし。 ※ 夢分流臓腑の図 大小腸図の如し。 病証、後後(のちのち)にあらわす故に略(りゃく)す。 臓腑の煩は十四経、針灸聚英(しんきゅうじゅえい)等にあり。 又、蔵腑に属(しょく)する処の物は難経(なんぎょう)にある故に記(しるさ)ず、見合すべきなり。 ■三 心持之大事 他流には何れの病には何れの処に何分針立るなどと云う事計(ばかり)に心を尽し、一大事の処に眼(まなこ)を付けず。 当流の宗とする処は、針を立る内の心持を専とす。語に、 事(わざ)に無心にして心に無事なれば、自然に虚にして霊空にして妙。 挽(ひか)ぬ弓、放(はなさ)ぬ矢にて、射(い)る日(とき)は、中(あたら)ずしかも、はづさざりけり。 是、当流心持の大事なり。 此の語歌を以て工夫し、針すべきなり。 ■四 三清浄(みっつのすまし) 此、三の清浄(すまし)心法の沙汰なり。 ※ 維(これ)、心の字の形なり。 三つの輪は、清(きよ)く、浄(きよ)きぞ唐(から)衣 くると念(おも)うな、取と念(おも)わじ。 三つの輪と云は、貪欲(どんよく、むさぼる)、瞋恚(しんい、いかる)、愚痴(ぐち、おろか)の三毒の心の清き月を暗(くもら)す悪雲なり。 歌に、 貪欲(むさぼりおもう)心 貪欲の 深(ふか)き流れに沈(しずま)りて 浮(うかぶ)瀬(せ)も無き 身ぞいかがせん 瞋恚(いかる)心 燃(もえ)出る 瞋恚(しんい)の炎(ほのお)に 身を焼(やき)て 己(おのれ)と乗(のれる)火の車哉(かな) 愚痴(おろかなる)心 愚痴(ぐち)無智(むち)の 理非(りひ)をも分(わけ)す 僻(ひがみ)つつ 僻(ひが)むは一(おなじ) 僻むなりけり 第一の貪欲(どんよく)心、変(へん)じて一切の禍(わざわい)となる。 此欲(よく)を離(はな)れざるがゆえに、針も下手の名を取(とる)事あきらかなり。 譬(たとえ)ば、病人に逢て腹を診(うかが)い、我心に乗(の)り、加様にせば愈(いゆ)べきと念(おも)う病者も有り。 又療治の行(てだて)心中に移(うつ)り浮(うか)ぶ事なく、腹の体(てい)、吾(わが)心に乗(のら)ぬ病人数多(あまた)あり。 加様の心に移(うつら)ず。 腹の様子、合点行(ゆか)ざるは、百日、千日針するとも吾(わが)心に合点のゆかぬは愈(いえ)ざる物なれば、餘人へ御頼(たのみ)あれとて療治せざる物なり。 しかるに、我心に合点行(ゆか)ざれども、病人福祐(ふくゆう)なるか貴人等なれば合点は行(ゆか)ねども、先(まづ)一廻(まわり)も針せば、譬(たとえ)病人死したりとも、針の礼は受(うく)べきなど念(おも)い、取掛り、療治すれども、元来(もとより)合点の行(ゆか)ぬ病なれば痊(いえ)ず。 しかれば此針立、下手にて、針の験(しるし)なしとて、針立を替(かゆる)者(もの)なり。 又、重病にて我心に乗(のら)ねども、欲心(よくしん)に引(ひか)され取り掛り針する内に、病ひ弥(いよいよ)重り、終(つい)に死すれば、下手の名を取る事は我欲心熾(さかん)なるがゆへなり。 人間と生れ、欲の無(なき)と云う者あらざれども、重欲心を嫌(きらう)なり。 此の欲の雲、心中に強(つよ)き時は、心の鏡の明(あきらか)なるを蓋(おお)い、暗(くらま)ずが故に病い心の鏡に移(うつ)り観(みゆ)る事少も無(なき)により、生死、病証の善悪も弁(わきま)へ難し。 欲(よく)の炎(ほのう)熾(さかん)ならざる時は、吾心清て曇(くもり)無(なき)秋の月明なる鏡の如くなるに依て、病の吉凶、生死の去来(きょらい、さりきたる)、善(よく)浮(うか)みしるるなり。 是三つの清浄(すまし)の第一なり。 次に瞋恚(いかる)気心にある時は、前の如く亦(また)心鏡を暗(くらま)ず。 是、瞋恚(いかる)気の出ると云は、愚(おろか)なる意より出るは元来、我を立るが故なり。 木火土金水の五行と陰陽の二つを借(かり)出生ず。 皆以て借物(かりもの)なり。 身の中の五蔵六腑、五行に配す五つの物を借(かり)得たるが故に死期に望(のぞみ)て一つ一つ元(もと)の方へ返(かえ)す。 然(しか)れば、我とすべき物なし。 又、頼(たのみ)をなし千万年とも念(おもう)べからず。 歌に、 地水火風 集(あつま)り生(なせ)る 空(あだ)な身に 我と頼(たの)まん 物あらばこそ 暫時(しばらく)生のある間(あいだ)にて焼(やけ)ば、灰(はい)埋(うずめ)ば土と成(なる)からは我と立べき物なし。 大水の 先に流(なが)るる橡(とちか)らも 身を捨(すて)てこそ 浮(うかぶ)瀬(せ)もあれ 然(しかれ)ば、我(が)を捨(すて)無我の心になる時は、瞋(いかる)気も人を恨(うらむ)る意もなし。 我を立るがゆへに恨瞋(うらみいかる)心も又、欲(よく)の意も出る。 是(これ)、元(もと)を知(しら)ざるは愚痴(ぐち)の暗(やみ)に迷(まよう)がゆえに色の道に耽(ふけん)。 物毎に愛著(あいちゃく)、執心(しゅうしん)深(ふかく)して、背(そむく)物を恨(うらみ)瞋(いかり)、貴人、高位、福人に諂(へつら)い、金銀、米銭を得(えん)と欲(おもい)、賎(いやし)き者、貧(まずしき)者をば目にも掛(かけ)ざる様にするは、襊(えり)に付虱(しらみ)根性とて、大愚痴より生ずる。 是(この)心、少もありては中(なか)なか病を痊(いや)す事、憶(おもい)も寄(よ)らず。 貴(たっとき)人にも諂(へつらわ)ず、賎(いやしき)者をも撰(えらば)ず。 福人、貧者(ひんしゃ)の隔(へだて)無(なく)、唯(ただ)、病苦を救(すくわ)んと念(おもい)、慈悲(じひ)強(つよく)正直にして、邪見、欲心を離(はなれ)たる処、即心、即仏なれば、天道、仏神の護(まもり)ありて、其(その)業(わざ)に自然と妙を現(あらわ)す歌に、 慈悲(じひ)仏(ほとけ) 正直(じき)は神(かみ) 邪見者(じゃけんひと) 心一つを 三つに云べき 是歌を以て、能(よく)心得貪(むさぼる)心なく、無我の心にならんと念(おもい)、十が十なから無我無欲にならずとも、半分にても心清(すみ)て病を痊(いやさ)ん事は疑(うたが)い無(なし)。 是、貪欲(どんよく)、瞋恚(しんい)、愚痴(ぐち)の三つの念あらざる日(とき)は、心清(きよし)。 此故に、心を清浄に持を三つの清浄(すまし)と云う。 是の心持、諸藝(しょけい)に用る事なり。 殊に神へ参詣(さんけい)するにも身を清(きよむ)るは次にて、心の清浄を専(せん)とす。 心清(きよけ)れば、神(たましい)清きがゆへに、向いの神も又清く納受あるなり。 往古(いにしえ)、栂尾(とかのお)の明慧(みょうえ)上人と笠置(かさき)の解脱(げだつ)上人と此両(ふたり)の名僧(めいそう)をば、春日大明神双(そう)の御眼(まなこ)、双(そう)の御手の如く思召けるに、明慧参詣の日は、御簾(みす)上り、直(じき)に明慧と春日御物語成され、解脱参詣し玉うには、御簾を隔(へだて)御物語成さる。 或日、解脱上人参篭(ろう)有て、春日へ御申有けるは、神と申し奉るも仏の垂跡(すいじゃく)なり。 仏は降(ふる)雨(あめ)の草木、国土を漏(もらさ)ず、湿(うるお)すが如く、平等にして隔(へだて)更(さら)に無(なし)。然(しか)るに、明慧と我と別の違(ちがい)有るべからざるに、明慧参詣には直(じき)に御対面(たいめん)あり。 我詣(もうで)ぬるには御簾(れん)を隔て御物語し玉う事、心得難しと問(とい)玉う。 明神仰けるは、我に何の隔(へだつる)事の有べき。 其の方、左様に念(おもう)心、御簾(みす)の隔(へだて)となるなりと御返答御座けると、是(これ)解脱房の心に慢心(まんしん)の我(が)あるゆへなり。 又、古(いにしえ)美濃(みの)の国(くに)、加納(かのう)の城(しろ)に於伊茶(おいちゃ)と申す女の母、重病を受(うけ)苦(くるしむ)。 於伊茶(おいちゃ)、餘(あまり)の悲(かなしさ)に、関(せき)と云う処に、龍泰(りゅうたい)寺の全石(ぜんせき)と申す僧を請(しょう)し、祈祷(きとう)の為に陀羅尼(だらに)を読(よみ)てもらひける。 全石一心不乱に陀羅尼を読むこと暫(しばらく)有て、母頭(こうべ)をあげ、やれやれ嬉(うれし)や、頃(このごろ)心(むね)の内に苦(くるしみ)ありて悲(かなし)かりけるに、御経の力に依(より)、苦(くるしみ)無(なし)と、悦(よろこぶ)事涯(かぎり)無(なし)。 厥時(そのとき)、全石憶(おもう)様(よう)、最早(もはや)布施(ふせ)をもらい帰(かえる)べきか、今少し逗留(とうりゅう)すべきかと思う。 心出来(いでき)ける時(とき)に、母やれやれ悲(かなし)や還(また)心苦(くるし)く成て候と悲(かなしむ)。 全石、是(これを)聞(きき)、扠(さて)は我に欲心(よくしん)出る故と念(おもい)とり、前(さき)の如く、一心不乱に陀羅尼(だらに)を読(よみ)ければ、母も病漸漸(ぜんぜん)に軽(かろく)成(なり)、終(つい)に痊(いえ)けるとなり。 此も皆我心の清浄(しょうじょう)と不(ふ)清浄との謂(いわれ)にて、加様の善悪(ぜんあく)あり。 又、病者に向(むかう)て憶病(おくびょう)出る人有り。 是は我藝(わざ)の至(いたら)ざる者(ひと)は、心に動転(どうてん)出(いで)易(やすし)。 去(され)ば、不動明王(ふどうみょうおう)の背(せなか)なる伽婁羅炎(かるらえん)は心火をあらわす。 其の火の内に、不動御座(おわします)は、人人の心の動ぜざる体なり。 諸藝(けい)共に不動の体とならざれば、其の事(わざ)成り難し。 歌に、 鳴子をば 己(おの)が羽風(はかぜ)に 任(まかせ)つつ 心と騒(さわぐ) 村雀(むらすずめ)哉(かな) 此(こ)の叚、能能心掛(がけ)、工夫を成すべし。 是、心持第一の事なり。 ■五 四つの脈之大事 脈は往古(いにしえ)より七表八裏九道と分つといへども、加様に細かに採り知る人無し。 やうやう浮・沈・遅・数の四つを採り知る人も稀なり。 しかるに、当流の四つの脈は、数千万人の奇特あり。 先づ動気・動気の乱る・相火・相火の乱ると号して四つなり。 動気と云うは、遅からずトントントンと打ち来たる脈なり。 世上にて平脈と号す是なり。 動気の乱とは、右述る平脈の内に打切れあり。 譬(たと)えば、トントントンと来たる脈、トントントトン、トントントトンと加様に打切する。 是脈を無病なる人得る日(とき)は、必ず災難に逢うか、扠(さて)大病を得る事猜(うたが)い無し。 旧(むかし)意斎と古道三同時の人にて殊に朋友(ほうゆう)たりし間、意斎、夢分より伝授し玉う是の四の脈を古道三へ伝え給う。 其後、道三用ありて関東へ下向の折節(おりふし)、道中の今の新井に泊り、日暮れて主(ぬし)の脈をとり観(み)玉うに、動気の乱打来る。 道三、下人共を呼び、一人づつ脈を観玉うに、何れも災難に逢う脈なりしかば、道三不思儀(ふしぎ)の念(おも)いをなし、其の侭(まま)宿を立ち、夜と共に五六里関東の方へ下向して宿を借り、心を静め、上下の者共迄残らず脈を観玉うに平脈なり。 扠(さて)も不思儀の事哉と思い給う。 其の夜、新井の山よりして螺(ほらがい)抜け出て、新井の諸人災難に逢うて死する者数を知らず。 其日道三死を逃れ給ふも、是脈相伝の印なり。 夫よりして道三、是の四つの脈を秘して輒(たやす)く相伝し玉う事無くして終(つい)に秘し失(う)せぬ。 今、意伯家に伝る。 此の外、加様の奇特(きどく)筆紙に尽し難し。 仍(よ)って略(りゃく)す。 扠又(さてまた)、相火(しょうか)と云う脈はトントントンと成程早く来たる脈なり。 維(これ)を病人の脈と号す。 相火の乱れと云は、トントントトン、トントントトンと早く来る脈の内に打切あり。 此を死脈とする。 加様の脈は十人が十人は死すると知べし。 此れ当流の大事なれども、是の四つの脈を知って療治する本道、針医、謬(あやま)りをせざれば、非業の死無き時は大なる善根と念(おも)い、書き記す。 扠(さて)、是の脈の観(み)処は手に非らず。 臍中、神闕に指の腹をあてて打来る脈を観るべきなり。 是の神闕を当流に三焦の腑と号す。 維又(これまた)、相伝事なり。 奥に記す。故に略(りゃく)す。 ■六 火曳之鍼 是の針の術は臍下三寸、両腎の真中なり。 産後の血暈(けつうん)とて子産みて後、眩暈(めまい)の来たる日(とき)、臍下三寸に針して上る気を曳き下ろす針なり。 譬(たと)え産後に眩暈無くとも、三十一日の内に二、三度程針する物なり。 扠(さて)、凡そ病証上実して下虚する人は必ず上気する。 加様の者(ひと)に火曳の針を用る。 是の外病証に依って用いる事、医の機転に依るべきなり。 ■七 勝纍(かちひき)之針 是の針は大実証なる人の養生針の日(とき)、扠又(さてまた)傷寒の大熱、傷食の節(とき)用いる。 処定らず邪気を打ち払(はら)い針を曳く。 是、瀉針なり。 虚労、老人には用いざる針なり。 其外は大方是針を用いる。 ■八 負曳(まけひき)之鍼 是も処定まらず病証に依って邪気の隠れ居る日(とき)、針して其の邪気をおびき出だして療治する事有り。 加様の針を用いる病人は、何とも病証知れ難し。 功を積みたる狐の付たる病人は、狐付とも気違いとも知れ難き物なり。 其の時にも用いる。 兎角(とかく)、邪気を曳き出して様子を観、療治せんと欲(おもう)日(とき)用る針の方便(てだて)なり。 諸病の知れ難き時の問(とい)針と心得べし。 ■九 相引(あいひき)之鍼 是も処定まらず、和(やわら)かなる針。 虚労の証、老人養生針に用いる。 邪気の曳くと、針を曳くと相曳きに引く針なり。 補針とも言うべし。 ■十 止(とどむる)針 立て処は両腎なり。 其の内多くは右の命門、龍雷(りゅうらい)の相火にて常常(つねづね)亢(たかぶ)り易く上り安し。 腎水を漏(もら)したる日(とき)は、必ず右腎、命門の相火動ずる物なり。 天、是れの火にあらざれば物を生ずること能わず。 人是の火非ざれば、一身を生ずること能ずと云いし、火は是なり。 邪気にも五邪ありとはいえども、眼(まなこ)とする処は命門の相火なり。 是の相火の亢(たかぶ)り上るに針して、止どめ上さざる様にするを止(とど)むる針と号す。 諸病に宗(むね)と用る止どめ様、口伝なり。 工夫以て針し覚ゆべし。 ■十一 胃快之針 大食傷(たいしょうしょく)の日(とき)、針先を上へ成し、深く針して荒荒(あらあら)と捏(ひね)る大法。 是の針にて食を吐き、胃の府くつろぎ快(こころよ)くなるが故に胃快の針と号す。 併(しかしなが)ら常には針せず。 処は臍(さい、ほぞ)上、真中通り、臍(ほぞ)の上一寸是れなり。 又、腫気(しゅき)の病人に針す。口伝。 ■十二 散(さんずる)針 処ろ定らず、大風吹き来て浮雲を払(はら)うが如く、滞ること無くさらさらと立てる。 是の日(とき)の心持ち、成程心軽く重気(おもげ)成る事無く立べし。 万病、皆以て気血の順(めぐ)らずして滞るに依って、病を生ずるなり。 しかれば、滞る気血を解(と)く針なれば、此方の心軽く持て更更(さらだら)と針すべし。 諸病共に用る針なり。 ■十三 針の抜けざるを抜く事 是の針の抜けざると云う事、凡そ初心の間にこれ有り。 是の故に立て替えの針とて二三本も用意する物なり。 大方左の手の押手(おしで)の業(わざ)なり。 初心なる内は、押手を剛(つよ)く押せば、肉針を巻く事無し。 押手弱ければ肉針を巻くに依って抜けず。 其の時、針立の心、動転(どうてん)し、色を失ない、多くは其の針抜くことを得ず、負る物なり。 左様の抜けざる針を抜くには前の針に構わず、其の針の四方に針を立てるか、扠(さて)は立て有る針を手に持て病人の足の裏を爴(か)かすべし。 足の裏を爴(か)けば、爴(か)く処に病人の気移る。 其時針を捏(ひね)り抜きに抜くべし。 抜かざる針の処へ病者の心移り居るがゆへにぬけず。 仍(よっ)て足の裏を爴(か)く時は、病者気転んじて爴(か)く処へうつるに依って針抜けるなり。 総じて針を捏(ひね)り抜きにすれば加様の難無し。 還(また)深針すれば験(しるし)有りとて、邪気を過ぎ、針すれば、加様に針の抜けぬ事も有り。 又は蔵腑を破るがゆへに病者に草臥(くたびれ)来る物なり。 其の邪気軽ければ針も軽く、重ければ針も亦た重く、邪気程に針すれば病人草臥(くたび)るる事も無く、針の抜けぬ事も無し。 難経に四季に依って針の深浅の変あれども、当流に用ひざるは何(いかに)と云うに、春夏は気血上に浮ぶ。故に、針も浅しと難経に記(しる)せども、病重きに浅く針しては少も効(しるし)無し。 還(また)、秋冬は気血下に沈むに依って針を深く指すの由を書す。 しかりといへども、病軽ければ針も又浅くす。 病の軽きに深針すれば、邪気を越て害(とが)無き蔵腑にあたる時は返て蔵腑を損ずるゆへに、邪気程に針する事、当流の掟(おきて)なり。 扠(さて)邪気に針の中(あた)る、中(あたら)ざるを知るは、撃つ槌(つち)の調子にてしるるなり。 是の叚、能能(よくよく)合点(がてん)あらば、針の抜けざる難も無く、病も安く痊(い)ゆべきなり。 ■十四 針痛 凡そ病者に針して後、針跡(あと)脹(ふくらみ)痛む人あり。 是は邪気を越えて深く針して蔵腑損ずるなり。 又、針は邪気にすれども痛むは針を立る日(とき)の心持ち正路ならざると知べし。 針跡痛みて忍ぶべからざる人には前廉(かど)、針したる穴の四方に針すれば、痛む処へ気血の聚(あつ)まりたるが散て愈ゆる。 是等の時は散ずる針を立を吉。 ※ 針迹痛む立て直しの針図 何れの処にても針跡の痛む処へ是の如くに針すべし。 真中の一つは前に針したる処。 四方の四つは後の針の立様なり。処定まらず。 ■十五 必死病者を知る習 人間の百千万の念(ねん)は生の種(たね)なり。 此の念の有る内が楽しみたり。 念を離るる日(とき)は冥途、黄泉の古郷に帰(かえ)り赴(おもね)く事少も疑い無し。 是の念を離れたる病者には必ず針すべからず。 是れ大事の習いなり。 加様の儀、他流にこれ無き故に、病者の死する迄も薬を用い針を立て、下手の名を顕(あらわ)す。 此の習いを覚えたる本道、針医は前廉(かと)より病人の死するを知る故に、上手の名を取る。 扠(さて)、いかなるを念を離れたる病者と観るなれば、針する日(とき)病者の目に心を付て観るべし。 念の離れざる人は針立てる内にも四方を看廻(みまわ)す。 是の者(ひと)は生くるなり。 又、四方を見ずして真直(まっすぐ)に見て瞳子(ひとみ)の動かざる人は必ず死する人と観切(みき)って、針すべからず。 是れ秘中之秘なり。 ■十六 吐かす針 穴は胃の腑なり。 針先を上へなして深く立て捏(ひね)るべし。 一本にて効(しるし)無くは二三本も立てる。 扠(さて)は両脾の募に邪気有らば立てるべし。 吐かするに胃の腑に針する法とはいへども、食気胃の腑に無くして下焦にあらば、瀉(くだ)す針にて食気を下してよし。 扠又(さてまた)、傷寒等にも症に依って吐かする事あり。 是(これ)とても邪気、胃の腑に無き時は立たず。 ■十七 瀉(くだ)す針 穴は臍(へそ)の下二、三寸、両腎の間なり。 針先を下へ成して深く立てる法なれども、邪気あらざればたてず。 傷寒に瀉す針用るとも右の如し。 ※ 吐瀉針の図 ■十八 車輪之法 諸病共に邪気を根(もと)として立てるべし。 邪気あらざる処に立てるべからず。 過(とが)無きを討伐するが如し。 何様の煩にても両脾の募、両の肺先、章門、両の腎、胃の腑を見分け療治すべし。 右に云う処の分、何様(なによう)の病にても此の処にて療治すれば、車の両輪の如く療治早く廻るとの心にて車輪の法と号するものなり。 鍼道秘訣集 上終 鍼道秘訣集 下 ■十九 実の虚 実の虚と云ふ腹は、臍(へそ)より上は実して、臍より下は虚(うつろ)無力を云う。 加様の腹は上気し又は息(いき)短く、食後に眠り来たり。 又は気屈し易く、ため息あくびし、肩胸(かたむね)痛む事あり。 大方の人、腹持ち悪敷(あし)など云うは是の腹なり。 本道にて云はば、脾胃腎虚などと見立たてるべし。 両の脾の募、両の肺先、胃の腑に針すべし。 左に針の穴を証(あらわ)す。 ※ 実の虚の腹之図 図の如く黒き処は皆、邪実なり。 傷寒表証等、此の如し。 勝ち引きの針、最も吉。 大食傷など、腹痛あるは大法此の如きなり。 ■二十 虚之実 虚の実の腹は右の腹と違い、臍より下も皆実邪にして臍より上は虚(うつほ)なり。 併無病なる人の腹に是の如きあるは吉。 既に煩(わずら)う腹に斯如きは、腹下るか腰痛むか、小便不通、淋病、大便結するか、女は腰気(こしけ)あるか、月水滞らざるか、疝気(せんき)瘀血(おけつ)等の煩い、傷寒の裏証、又は湿を受け、寒(ひえ)たる人必ず是の腹にして足の病ある物なり。 図書くに及ず。 療治は両腎、丹田、臍の両傍、章門に針して吉。 是の処を見合せ、邪気の剛(つよ)き方に針す。 ■廾一 実実 実実の腹は、臍の上下共に邪気あり。 加様の人は大病起こるか、又は心痛、大食傷、何れにも急なる煩い、頓死などする物なり。 大木の雪に枝折るるが如し。 散ずる針、勝ち引きの針、専らにすべし。 ■廾二 虚虚 是の腹は臍の上下皆虚(うつけ)たる腹。 最も悪敷(あし)く、負引きの針にて小邪を引出し療治すべし。 虚労等に此の腹あり。 加様なる療治に功者の能知る物なり。 病に効(しるし)を見せんとすれば、病人に草臥(くたびれ)来り易し。 扠(さて)は病者、退屈しやすし。 中中(なかなか)以て治療六箇敷(むつかし)く、此の体(てい)の病人、本道も針医も上手、下手あらわるる物なり。 ■廾三 寒気(さむけ)を知る事 腹を診(うかがい)、是病人は寒気来るべしと此方より断(ことわ)る事は、両の章門よりして邪気出(いず)る時には万病に寒気あり。 章門は肝経なり。 夫れ肝は厥陰、風木なるが故に、邪気、章門より出る日(とき)は、寒風を出す事疑い無し。 邪気剛(つよ)き方の章門に散ずる針、勝引の針する時は邪退き、寒気止む。 是れ妙。 ■廾四 腫気の来たる事を知る 諸病に腫気の来たるを兼ねて知る事、最も相伝とす。 此れ習いをしらざれば、本道にても針医にても下手の名をあらわす。 これに依って、病者に腫気来(きたら)ず様に前前よりして立る物なり。 扠(さて)、此れ目付処の大事は胃の腑なり。 大病人を受取り針せば、胃の腑へ邪気の寄(よら)ざる様に針する事、最も習いと為す。 胃の腑へ邪気寄るば、必ず食進まずして病者一日一日と草臥(くたび)るる。 扠(さて)は胃火亢(たか)ぶり乾くがゆへに、病体より食進み過(すぐ)る。 是れ即ち腫気の来る相なり。 随分と胃の気の邪気を払(はら)い見みるに退(しりぞか)ずんば、辞退し療治すべからざるなり。 扠(さて)、大病人を初めて観るに、胃の腑に邪気あらば食進み過ぎぬるか、食後に眠り来たると云うべし。 又、足の甲、腰の廻(めぐ)りに腫気ありて腰冷ゆるかと問うべし。 必ず左様に有る物なり。 肥えたる人ならば療治すべし。 痩せたる人の腫気は大事なれば、必ず辞退して治すべからざるなり。 ※ 腫気覩様之図 ■廾五 瘧(おこり)観るの大事 瘧(おこり)の病証、種種医書に記すと雖(いえど)も、当流にては肝瘧(かんぎゃく)、脾瘧(ひぎゃく)の二証に定む。 腹を診(うかがう)に、両の脇章門より豁骨(あばらぼね)へ邪気込み入あるは、肝の臓より発(お)こる瘧(おこり)にて、寒気熱甚だしき物なり。 併(しか)しながら、早く平愈(へいゆ)するなり。 又、両脾の募、胃の腑に邪気あるは、食も進み難し。 是を脾瘧(ひぎゃく)とも云い、俗に虫瘧(むしおこり)とも云いて痊(い)ゆる事遅(おそ)し。 此証は元来、湿(しつ)にあたり、脾胃に湿気(しっけ)篭(こも)りて散ぜざる処に食などにあてられ、食傷するの後、必ず変(へん)じて脾瘧(ひぎゃく)となる物なり。 痊(いゆ)る事遅し。 療治悪敷(あし)ければ、必ず若き人は虚労の証と成り易く、老人は又次第に草臥(くたびれ)、大事に及び腫気など出(い)で、終(つい)には死する物なり。 針の立様口伝多し。 ※ 脾肝二瘧之図 ■廾六 膈之針 膈症の事、諸書に記す、故に書かず。 当流腹の観る様は鳩尾、両脾胃の腑に邪気あり。 大法、痰火(たんか)上りて心を塞(ふさ)ぎぬる故、胸中乾きて食通り難く、偶(たまたま)食通り、胃中に止(とど)まる様なれども胃火熾(さか)んなるに依り、軈(やが)て返して食を受けず。 是れ皆、燥痰火(そうたんか)熾(さか)んなるが故なり。 是の故に乾燥(かんそう)の物を堅く禁(い)むなり。 此の療治、尤(もっと)も六箇敷(むつかし)。 其の内肥えたる人の膈翻胃(かくほんい)十に七八も痊える。 痩せたる者は愈え難し。 鳩尾、両脾の募、胃の腑の邪気を退(しりぞ)くる様にすべし。 大便結するなり。 ※ 膈翻胃之図 ■廾七 中風針之大事 是も病証、諸書に之有り。故に略(りゃく)す。 左右の半身かなわざる治療に習いあり。 左の半身遂(かな)わざるは、邪気右の傍らに有り。 右の半身遂(かな)わざるは、邪気左の傍らに有り。 是れ、当流の習いなり。 邪気を本と為して針すべし。 一方へ気血偏寄(かたよる)、故に一方虚して、虚の方遂(かな)わずして、其偏実(へんじつ)の方を専らと針して、虚にかまわず針すれば、偏(かたかた)の気血、虚の方へ移り両傍、平になる時は、遂(かな)わざる偏身(へんしん)痊(い)ゆる。 譬(たとえ)ば、秤(はかり)の軽重あるが如し。 諸病の発(お)こると云うも、気血相対して軽重なければ平人無病なり。 臓腑の虚実に依りて発(お)こる邪実を退(しりぞ)くる時は、平になり、病い無し。 是の理(り)、万病に用ゆ。 扠又(さてまた)卒中風(そっちゅうふう)して気を取り失うには、鳩尾、并(なら)びに両傍らに針を深くする日(とき)は本心になるなり。 是の針にて気付けずは神闕にすべし。 鳩尾に針せざる前(さき)に神闕の脈を観るに脈無くば、兎角死する人なり。 少しにても動脈あらば、針して宜し。 扠(さて)、本心になりての後には、前の療治と心得べきなり。 ■廾八 亡心之針 亡心とは一切の煩い、大食傷、頓死等に心気をとり亡なうを云ふ。 右に書する如く、先づ神闕の動脈を診(うかがい)、脈無くば針せず。 脈少にても有らば、鳩尾、同じく両傍らに深く針す。 是の針にて利せずんば、神闕に深く立るべし。 是れにて生きずは定業(じょうごう)と知べし。 是れ当流の大事なり。 亡心の証は皆以て邪気心包絡に紛(みだ)れ入りて、心気を奪(うば)うが故に、斯(かく)くの如し。 因て鳩尾、并(ならび)に両傍らに深く針して心邪を退けぬる時は、本心に帰するなり。 諸病の心持ち、実積(つ)んで邪と変し正を失ふ。 其の邪を退くる節(とき)は元(はじめ)の正にて病無しと悟るべきなり。 ■廾九 丹毒之針 丹毒と云うは、総名にして軽重に仍(より)て苦しからざる瘡(かさ)と、大事なるとの分(わかち)あり。 俗の諺(ことわざ)に早瘡(はやくさ)と云うが大事にして、俗医多くは驚風(きょうふう)と見迷う。 軽きをば脾疳(ひかん)なりなど云て薬違いにて多く死(ころ)す事、腹の見様に口伝ある事を知らざれば最もなり。 此の書を見玉ふ本道、針医、今日よりして此の病症、見損じ毛頭したまうべからず。 丹毒にて死を退(のがれ)しむる事大きなる善根なり。 此上にても見違いあらば是非(ぜひ)無きなり。 扠(さて)、此の習は男の子は右の脾の募、肺先より鳩尾へ向けて邪気あり。 又は章門へかけて邪気あり。 女の子は左の章門、肺先、脾の募より鳩尾へ邪気指し込みありて搐溺(ひくめく)。 驚風に似たり。 是母の胎内に有りし時、母の瘀血を飲みし子、必ず加様の症あり。 療治は鳩尾、両の脾の募、肺先の邪を退(しりぞ)け払(はら)う様に針すべし。 章門の邪気を追払(おっぱら)う時は搐溺(ひくめき)止むなり。 驚風とは各別(かくべつ)に違いあれども、腹観分知らざれば見違いあるも最もなり。 ※ 丹毒邪気之図 ■卅 驚風之針 急驚風は陽症にして痊(いえ)易く 漫驚風は陰症にして痊(いえ)難し 二症の邪気出処(いでどころ)違いあり。 急驚風は左の章門より出て鳩尾へ邪気込み入る 漫驚風は胃の腑より出て真直に鳩尾へ上る乳食に傷らるる物なり。 驚風の針は餘り針数をすべからず。 眼と見付けたる処を専と針す。 諸病皆以て邪気を宗とする腹の顴様を知時は驚風と丹毒との違い是の如く見違うべからず。 邪気の図左に記す。 ※ 急漫驚風之図 ■卅一 疳之針 五疳(ごかん)の証、諸書にこれ有り。依って略す。 此の中に脾の臓より出る疳を脾疳と号(ごう)して六箇敷(むつかし)なり。 扠(さて)は肝腎の両臓より出るもあり。 肝より出るは鳥目(とりめ)とて黄昏(ひぐれ)より眼見えざる物なり。 両章門に目を付け、邪気を鎮むる節(とき)は病愈ゆる。 脾の臓より出る疳は、両の脾の募、胃の腑に必ず邪気有りて、四支細く痩せ、腹斗(ばか)り大になりて食を好む物なり。 両脾の募、胃の腑の邪を退くる時は、漸漸に痊ゆる。 療治遅ければ必ず死する物なり。 最も難治とす。図に及ばず。 ■卅二 瘧毋(かたかい)之針 瘧毋(かたかい)とは世俗の諺(ことわざ)なり。 軽(かろ)き疳(かん)なり。 左の脾の募より肺先、章門へ下りて、邪気あり。 又は右の脾の募、肺先、章門より出るもあり。 何(いず)れにも一方よりして出る。 世の詞(ことば)に双貝(もろがい)と云うときは、両方より出て鳩尾へ指し込む。 此時大事となる。 一方より出る時、専に邪気を退る時は愈ゆる。 両傍らより出て心の臓に込み入る時は治し難しとす。 治療、其の邪を見分け針すべし。 何れの病にても邪気目あてなり。 ■卅三 一つ之針 諸病共に色色治療するといえども、効(しるし)無き時は、神闕に針するなり。 最も療治大事なり。 能能(よくよく)見究(みきわ)めて針すべきなり。 ■卅四 胃の気有無之大事 胃の気有る病人は、病(やまい)重くとも死なず。 たとえ病軽くとも、胃の気、甲斐(かい)無き時は死に趣(おもむ)くなり。 一説の習いに、食胃に入りて後に胃を診(うかがう)に、動脈来たるを胃の気有りとし、食後に動脈胃の腑に来ざるを胃の気無しと云う。 指の腹を以て診(うかがう)なり。 六脈無き時、此の胃腑より邪気出て両脾、鳩尾を塞(ふさ)ぐ故なれば、脾の募、胃邪を払(はら)い退(のぞ)く時は六脈出る。 是尤も秘事とする事なり。 善善(よくよく)是巻を得心し給(たま)わば、病(やまい)愈す事、手の裏(うち)に有り。 ■卅五 三焦の腑之大事 諸書に三焦は名有りて形無しとも云い、又上中下と分ち、三焦の腑と云う由有りて、実の事無し。 しかるに、当流にて明らかに知る事、重宝これに過ぎず。 扠(さて)、何れの処を三焦の腑と云うなれば、即ち臍中、神闕、是なり。 何を以て云うなれば、父の一滴水、母の胎内に宿る。 一(はじめ)臍中に受け留め、夫れ自り日を重さね、月を積みて人と生(な)る。 天の一、水を生ずるこれなり。 還(また)は、伊奘諾(いざなぎ)、伊奘冉(いざなみ)の夫婦の二柱の御神、豈(あに)此の下に土(くに)なからんやとて、天の御鉾(みほこ)を下ろし掻探(かきさぐ)り給えば、鉾(ほこ)の滴(したたり)凝(こ)って一の嶋(しま)となる。 おのころ嶋、これなりと神書に有る事、茲(この)義なり。 臍、即ち一身のくくりとす。 設令(たとえ)ば、袋の口を結(くく)るが如し。 此の故に神闕とも三焦の腑とも号して、生死、病の善悪を神闕の動脈にて知る事、四つの脈に証(あら)わす。 最も秘すべし。 是れに付き、口伝(くでん)数多(あまた)これ有り。 委(くわ)しくは奥田意伯門人と成りて印可の上にて相伝有るべきなり。 ■卅六 補瀉之大事 素問、難経、針灸聚英、等の書に、補瀉迎随の事、色色(いろいろ)書すと雖も、当流には補は瀉なり、瀉は補なり。 補の内に瀉有り、瀉の内に補有りと云いて、諸病是れ皆実火なり。 是(この)実火の証には針す。 虚冷の者(ひと)には針せず。 陰中の陰、金の針を以て実火を瀉(くだ)し平にす。 しかれば皆以て瀉なりといへども有餘(ゆうよ)の邪気を鎮め、万病を痊(いや)す処、是即ち皆補なり。 世俗の諺(ことわざ)に針は瀉有れども補無しと云う事、謂(いわれ)あり。 肝の臓は多気、多血にして、常に実火、龍雷(りゅうらい)、相火(そうか)なるに、仍(よ)って瀉の針はあれども補の針無し。 閉蔵(へいぞう)をつかさどる物は腎にして、常に不足なるゆへに補の針はすれども瀉の針はなし。 是の事を瀉有りて補無しと云うなり。 これに就き、六ヶ敷、秘理(ひり)あれども紛ぎれ易き。 故に略(りゃく)す。 ■卅七 懐胎血塊観分(みわけ)之大事 血塊(けっかい)、懐妊(かいにん)の観分けをしらざる針医は、懐妊を観ても血塊なりと云う。 子を立下し、扠(さて)は胎中の子に針して、産まれて後、子に疵(きず)ありなどする。 此の針医の恥なり。 然りと雖も、相伝を受けざれば最もなり。 仍(よ)って、心底を残さず証(あらわ)す物なり。 臍下両の腎の間、目付けなり。 指の腹を以って両の腎の間を診(うかがう)に、浮(うか)びて和(やわら)かなる丸き物あるは懐妊なり。 沈みて堅き物あるは血塊に疑(うたがい)無し。 是れ少の事ながら知ると知らざるとにて大なる違いあり。 此の相伝を知る人は、恥の難を逃(の)がる事大なる利なり。 末の世の記(かたみ)に相伝事書するのみ。 ■卅八 胎前に鍼する大事 妊婦十箇月の内、種種様様の煩(わずらい)出る物なり。 加様の時、相伝を知らざる針医は多く禍(あやまち)有り。 よく是(この)教えを守り、針すべし。 扠(さて)、針の立様は何様(いかよう)の病と云えども、鳩尾の少下の真中、鳩尾の両廉(かど)、両の脾の募、両の肺先(はいさき)に針して、諸の病(やまい)愈(い)ゆる少しも疑い無し。 何れの理を以て加様に療治すると云う理、最も秘事なる故略す。 印可(いんが)の上ならでは此の療治免(ゆる)すこと無し。 ■卅九 産後針之大事 是(この)習いも印可の上にての相伝事なり。 子産まれ難き時は、臍下五寸横骨[・・・]此の如く針する時は安(やすく)生ず。 産まんと欲していきむ勢い、中極、横骨に聚まる。 故に、気塞がりて産ぜず。 之に依って右の処に針して聚まる気を散(ちら)す時は道開(ひらき)て産まるるなり。 散ずる針を用うべし。 又、血暈(けつうん)の時は臍下二三寸、両腎の間に火曳(ひひき)の針を立て、上気を引き下ろす時は、目眩(めまい)止(やむ)事妙なり。 たとえ目眩(めまい)無くとも、三十一日の内に二三度程火曳の針を立てる物なり。 此外の産後の療治口伝多し。 ■四十 野狐針之大事 野狐(やこ)とは狐付(きつねつき)に針する事なり。 最も大事なり。 気違いと狐付と似たる物なり。 是の観分けに習いあり。 気違いの腹は、鳩尾并びに両傍らに邪気有物なり。 狐付は外邪と号して一身皮肉の間を走る、あるくを引留めて、勝引の針を何本も立べし。 扠(さて)狐付の手を出(いだ)せといえば、必ず指を拳(にぎ)りて出し広ぐる事無し。 又、咽(のど)に[×]此如き筋あり。 是れ狐付の印とす。 加様に走り廻り力を出し、荒きは痊え易し。 成程、静(しずか)なるは愈え難し。 方方走り廻る外邪をとらえて深針するを習いと為す。 此の方の心持ち悪ければ、中中(なかなか)寄せ付けぬ物なり。 狐付を自由にするは、此方の心持ちに習いあり。 三つの清浄(すまし)を専らとし、野狐の話(わ)を相伝すべし。 是の狐の付く事、如何(いかなる)の理にて付と云う事、秘中の秘なり。 能能(よくよく)四十の条の習い、工夫をして弥(いよいよ)以って名人と成り給うべきなり。 鍼道秘訣集巻下 畢 ■(後記) 世俗の諺に秘事は睫(まつげ)の如しとて、仮令(かりそめ)の事にも秘伝習い有る事なり。 此の習い知ると知らざると天地の違いあり。 習いを知りたる輩(ともがら)は禍(あやま)ち無く、諸病を痊す事、手の裏(うち)に有り。 右四十条の習いの内、数千の書にて知れ難き三焦之腑、明(あきらか)に知る。 其の外、産前の針と云うは子胎内にある時、諸病出る物なり。 此日(とき)子に中(あた)らずして然(しか)も、病愈す針と、又懐妊、血塊の見分け、狐付の針、補瀉の弁、尤も大事とす。 併せて此書を世にあらわはし、過無くして万病愈え、非業の死無き日(とき)は大善の長なれば、今新たに板行して世宝とする者なり。 貞亨二(1685年) 乙丑 孟春 良辰 土川宇平求板 図のメモ: 01 夢分流臓腑の図 02 維(これ)、心の字の形なり。 03 針迹痛む立て直しの針図 04 吐瀉針の図 05 実の虚の腹之図 06 腫気覩様之図 07 脾肝二瘧之図 08 膈翻胃之図 09 丹毒邪気之図 10 急漫驚風之図 鍼灸医学典籍大系 第13巻 2011/01/27 小林健二